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慶尚北道

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경상북도 게시판
Subject
世界遺産「石窟庵」、いまなお続く原型論争
date
2007-10-05 00:00:00
내용
 仏国寺と共に世界文化遺産に登録されている石窟庵の原型をめぐる論争は、過去40年余りにわたり続いてきた。本尊仏の前にある前室の原型をめぐる論争が、その最たるものだ。前室両面を飾る八部神衆(仏法を守る8人の神)が現在のように一列に並んでいたのか、それとも列の最初にある左右1体が曲がっていたのか、というものだ。最近、成均館大博物館によって日帝が石窟庵を補修工事し始める直前の1910年代初期に撮った写真が公開されたことにより、前室の前部左右の八部神衆1体は曲がっていたという事実が再確認された。


 しかし一部では、依然として疑問が提起されている。1910年代初期の写真を根拠に、八部神衆像が本来は6つであったかもしれないというのだ。当時の写真を見ると、前室入口の曲がった部分には八部神衆像がないからだ。それだけでなく、前室入口が曲がった屈折型だったという点を疑問視する人もいる。


 事実の糾明のためには、石窟庵の補修の歴史を知る必要がある。崩壊の危機にさえ見舞われた石窟庵を補修したのは、1913‐15年のことだった。当時の写真を見ると、石窟庵は彫刻像の間隔が開き、後ろに積み上がった石が見えるほどだった。日帝は本尊仏を除く全ての部材を解体した後、再建した。その後、湿気がひどくなる問題が発生するや、1920年代に再び部分的な補修を行い、さらに文化財管理局が1961‐64年に再補修を行った。この時、前室入口で曲がっていた左右の八部神衆像1体を、他の八部神衆と一列になるように並べた。この時から前室の構造論争が始まったというわけだ。


 朝鮮時代以前に石窟庵を詳細に表現した絵画や図面は存在しない。日帝が補修に取り掛かる直前に作った「石窟庵在来基礎平面図」や、細部を撮った写真が最も古い資料だ。最近相次いで公開されている当時の写真を見ると、前室の前部は一様に90度の角度で曲がっている。従って、石窟庵の「原型」を語る際、前室入口左右が曲がっていたかどうかを論ずるのは最早意味がない。


 問題は、1910年代の写真では、曲がった部分に像が「見えない」という点だ。八部神衆像は8体ではなく6体だったかもしれない、という主張の根拠になっている。これは、「見えないのだから、(像が)なかったものと推定する」という主張だ。加えて、日帝が石窟庵を補修する一方、石窟庵「周辺」で発掘した八部神衆像2体を曲がった場所に付し、しかもこの2体がどこにあったものなのかを日帝は明確にしなかった。そのため、こうした主張が可能になった。


 しかし、仏教美術史のどこにも「六部神衆」など存在しない。新羅人たちが八部神衆を彫りながら、8体ではなく6体しか像を作らなかったはずもない。これは、ある寺の一柱門に四天王像を作りながら3体しか像を作らなかった、と主張するようなものだ。


 姜友邦(カン・ウバン)一郷韓国美術史研究院長(前国立慶州博物館長)は、「八部神衆には8人から成る阿修羅がいるが、日帝が石窟庵で発見し付した像が阿修羅だった。日帝が前室に付した八部神衆像は、新羅人たちが作ったものと見るほかない」と語った。


 また文明大(ムン・ミョンデ)東国大名誉教授(美術史)も、「日帝は八部神衆2体の左右を移し替えることができたのだから、この八部神衆は前室にあった八部神衆ではないと主張することには同意し難い」と述べた。
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